May 09, 2006

UFO は存在せず

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最近、以下のニュースが話題になっているようだ。

* 「UFO は存在せず 英国防省が結論

今朝テレビを観ていると、フジテレビの番組「とくダネ!」のオープニング トークでこの話題を取り上げていた。

こんな調子だった。

小倉智昭 さん: 「英国防省が UFO が存在しないという調査結果を出した」 「この広い宇宙にはすごい数の星がある。地球外生物が存在しない、なんてことはないだろう」 「夢がない」

笠井信輔 アナウンサー:
「『UFO が存在する証拠がない』から UFO が存在しないというなら、『UFO が存在しない』証拠を出せってんだ!」

小倉智昭 さん:
「俺が言ってるんじゃないんだ。文句があったら英国防省に言ってくれ」

実はこの番組は、私の大好きな番組だ。小倉智昭 さん のオープニング トークも好きで楽しみに観ている。

しかし今朝のこの話には、なんというか、あきれた。この論理展開は、まさに「トンデモさ爆発」だと思う。

ステレオタイプな見方で申し訳ないが、何故マスコミって科学的なものの見方・考え方がこんなに下手なんだろう。


ツッコんでいくと:

* 「UFO は存在せず 英国防省が結論」

そんなわけないだろう。UFO の不存在証明なんか科学的にやれるわけがない。不可能なことは明白だし、「UFO は存在せず」なんて調査報告書が存在したとしたら、その調査報告書が眉唾であることは私にだって分かる。そんな調査報告書を英国防省が出すはずがないし、出していない。

英国防省の報告は「調査した限りでは空飛ぶ円盤が存在する証拠はなかった」ということであって、「UFO は存在せず」とじゃ全く意味が違う。「UFO は存在せず」なんて空飛ぶ円盤懐疑派の人ですら殆ど誰も言っていない筈だ。まあ、大槻義彦教授だったら言うかも知れないが。

「UFO は存在しているだろう。だが、『空飛ぶ円盤』と言われるものが存在しているかは不明だ。今のところ、存在している証拠はないようだ」というのが、科学的なものの見方であって、英国防省の報告もこの範疇のものだ。それに対して、「UFO は存在せず」と言うことは、めちゃめちゃ非科学的な態度だ。


* 「地球外生物が存在しない、なんてことはないだろう」

ましてや、「地球外生物が存在しない」なんて、誰が言っているんだ。そんなこと。
「地球外生物の不存在証明」なんて不可能に決まっている。大体、今回の英国防省の報告書の結論とは全然別の主張だ。


* 「『UFO が存在する証拠がない』から UFO が存在しないというなら、『UFO が存在しない』証拠を出せってんだ!」

こういうのを「悪魔の証明」という。「悪魔は存在する。存在しないという主張は間違いだ。存在しないというなら、その証拠を提示せよ」というやつだ。こんな論理を使って良いのであれば、どんな無茶なものの存在だって主張できる。

存在の証明を求めるのは「非論理的・非科学的な態度」だ。当然のことながら、存在を主張する側に証明責任がある。


* 「俺が言ってるんじゃないんだ。文句があったら英国防省に言ってくれ」

子供でも分かるような「間違ったニュースの見出し」を元におかしな論理展開を行うのが良くない、と思う。

「UFO は存在せず」なんてマスコミしか主張していないことに対して反論したあげく、「科学というのは夢がない」とか言わないで欲しい。

宇宙や地球外生物に興味を持った人が、夢を持ち、宇宙に憧れ、宇宙について「知りたい」という強い思いから、実際に「知ろう」としている。それが科学的な態度だ。宇宙や地球外生物にそれほど興味がなく、「知ろう」ともしていない人が、「科学者は夢がない」と言うのを聞くと、なんだかなあ、と思う。

頼むから UFO について全国的にコメントするのであれば、少しくらいは「知ろう」としてから発言してほしい。

投稿者 Fujiwo : 01:30 PM | コメント (0) | トラックバック

April 13, 2006

ジョーク「サービスエリアのトイレにて」の三ヶ国語訳

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投稿者 Fujiwo : 05:00 PM | コメント (0) | トラックバック

January 26, 2006

「やりたくないけどやってる」なんてものはない

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■ 「やりたくないけどやってる」なんてものはない

タイトルは、今日 chikura さん の日記を読んでいたら書いてあった言葉。
インスパイア (謎) されたので、私も書いてみる。

chikura さん の言葉を、勝手に chikura さん の日記から引用。


「今、貴方がしているそれは、
 自分がやりたいと思ってやっている事なんだ。
 世の中に、
 “やりたくないけどやってる”
 なんてものは一つもないんだ。」

同意。
私が反抗期の頃に、周りの大人に抱いた思いだ。
その通り。「やりたくないけどやる」なんて有り得ない。

「やりたくないけどやる」のが、良いか悪いかということでなく、有り得ない。

※ これに関して、以前「自由」について書いた文章がある。


■ 「やりたいけどやらない」もない

同様に、「やりたいけどやらない」も有り得ない。

買いたいけど買わない方を選ぶなんて有り得ないし、行きたいのに行かない方を選ぶなんて有り得ないし、辞めたい会社を辞めないなんて有り得ない。

※ 注:「大人の会話」で、上記のような表現を選ぶのは当然のことで、それは全然別の問題だ。


■ 「仕方なく嫌々やっているんだが」

或る人の言:


「いや本当は別のことがやりたいんだが、そちらが不可能なので、仕方なく不本意ながらこっちをやっているんだが」

繰り返しになるが、「やりたくないけどやってる」なんてものはない。

先ず、「そちらが不可能なので」というのは、それは、本当に不可能なのか。



不可能でないなら、それをやらないのは、やりたくないからだ。
やらない方を自由意志で選んでいる。
※ もちろん、やらないのが良いか悪いかは全然別の問題だ。

もし仮にそれが「本当に不可能」だとすると、それは「有りもしない選択肢」だ。
それは、「本当にやりたいこと」なんかでは有り得ない。



これは、やりたい、やりたくない、という言葉の定義の問題ではない。
それは全く違う。

「本当は別のことがやりたいんだが、そちらが不可能なので、仕方なく不本意ながらこっちをやっている」

という言い方には、「覚悟」がない。
そこが決定的に駄目だ。


■ 全ての人はそれまでの人生で「本当にやりたいこと」だけをやってきている

私も、「本当にやりたいこと」だけをやってきた。
そしてこれからもそうだ。
そういう「覚悟」をもっていたい、と思う。



投稿者 Fujiwo : 04:00 PM | コメント (0) | トラックバック

January 17, 2006

剃刀負け

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一昨日のことだ。

新年会の翌朝を「あわづグランドホテル」で迎えた俺は、ホテルの洗面所で、備え付けの安全剃刀(かみそり)を使って髭を剃っていた。
すると、安物の剃刀らしく剃り跡から点々と血が滲んできた。所謂(いわゆる)「剃刀負け」というやつだ。

「剃刀負け」?

そこで突如として、疑問が浮かんできた。

「剃刀負け? 果たしてそうだろうか?」

剃刀が勝ったのか負けたのか、どちらかを選ばなければならないとするならば、剃刀の勝利ではないのか?
もしこれが、俺の顔が何ともなくて、剃刀の刃が欠けていたのであれば「俺勝ち」、「剃刀負け」だろう。だが、俺の方が傷付いていて剃刀の方はぴんぴんしている。

これのどこが「剃刀負け」か。「剃刀勝ち」の「俺負け」ではないか。
どう贔屓(ひいき)目に見ても俺は勝ってないだろう。無念ではあるが、負けを認めざるを得ないところだろう。ここは。
いいとこ引き分けだ。
それなのに、「剃刀負け」?

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ここで、あなたは、「いや、『剃刀負け』というのはそういうことでない」と思うかも知れない。「『剃刀負け』というのは『剃刀に負けた』とか、『剃刀によって生じた負け』とか、そんな風に解釈すれば良いのでは」のように言い出すかも知れない。

# 「別にそんな話はどうでも良い」という人は今はちょっとあっちで待っててね。おじさんは反対意見の人と少し話があるからね。

で、「いや、別に『剃刀負け』という表現で良いのではないか」というあなた。そう、あなた。

では仮に、あなたが、ボブ・サップと K1 で戦ったとする。仮にだ。
で、まあ当然ボブ・サップが勝ったと。
# 「いやいやいや。俺が勝つだろ。そんなもん」と言う人は、ちょっと今だけあっち行っててね。話がややこしくなるからね。

あなたが負けたわけだ。残念な結果だが仕方がない。色々と言い訳をしたいかも知れないけれど、まあ結果は結果なので受け入れてほしい。

無傷のボブ・サップと傷付いて倒れているあなた。

でだ。これを「ボブ・サップ負け」とあなたが表現して、ボブ・サップが納得するか?
「あなた負け」の「ボブ・サップ勝ち」だろ、そんなもん。
「いやいやいや。俺なら納得させられる」と言う人。あなたボブ・サップと戦って負けてるんだからね。そこんとこ忘れないように。

「いやそれでもボブ・サップから目をそらさずに楽勝で『ボブ・サップ負け』と言える」という人以外は、「剃刀負け」という表現を使っちゃ駄目。

え? 「同じクラスの田中くんも『剃刀負け』という言葉を使ってた」?
あんた、田中くんに「死ね」って言われたら死ぬんか?
え? 「クラスの人がみーんな『剃刀負け』って言ってる」?
みんなって誰と誰やねん。どうせ田中くんだけやろ? 田中くんの話は、もういいの。

あなたはどうなの? という、あなた自身の姿勢が今まさに問われようとしているんよ。
え? どうなのよ。そこのところ。一体全体。


……まあ、「剃刀負け」の話はこのくらいにしといてあげよう。


同じように、能登の名物「ひっぱり餅」についても、言いたいことは色々とある。
今は多くを語らないが。
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「ひっぱり餅」? ひっぱったのは餅でなくて多分人間だろう。
だとしたら「ひっぱり人間」じゃないか。で、餅の方は「ひっぱられ餅」とか何とか。

ここで、「作用・反作用の法則」とか言い出す人がいるかも知れない。「物理的には同じように力を受けていて、どっちが『ひっぱった・ひっぱられた』とか言えない」とか、言い出すかも知れない。
或るいは、「日本語の文法は英語などとは違って…」などと言い出す人がいるかも知れない。

まあ、そういう反論がある方には、再度ボブ・サップに登場願ってあなたの首をひっぱってもらうことになるのだが。

この話はまたいずれ改めて。ゆっくり。

投稿者 Fujiwo : 07:00 AM | コメント (0) | トラックバック

December 09, 2005

敷居が高い

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コミュニティなどで見かける「敷居が高い」という言葉の誤用が、最近気になる。

「あそこのコミュニティは初心者にとって敷居が高い」
のような文をよく目にする。

この表現は間違いだ。

「敷居が高い」は「水準が高くて手を出しづらい」という意味ではない。
「不義理などをしたために、心にやましい所があって顔を出しづらい」という意味だ。

この誤用は多い。結構頻繁に目にする。
例えば、Google で「敷居が高い」を検索してみると、上位20件のうちの19件が誤用。
# 残りの1件は、 goo 辞書。

検索された誤用例:

よく、
「誤用、誤用というが、言葉は生き物だ。変化していくものだ。多くの人に使われていけばいずれ誤用でなくなるかも知れないんだ」
のようなことをいう人がいる。

そりゃそうだ。
私も、誤用をすべてなくすべき、とは考えていない。例えば、「ら抜き言葉」なんかは、今、正しい日本語になっていく過渡期なのかも知れない。そうした言葉の変化も文化のうちだと思う。

だが、「敷居が高い」の誤用は、明らかに「ハードルが高い」と意味を勘違いしたものだ。

「よく判らない言葉を背伸びして無理に使って、勝手に間違えた」みたいな格好悪いのを認めるのはどうなんだろう。
日本語にそんな格好悪い表現が増えていくのは、私は嫌だ。

同じような例として、以下に「混交表現」をあげてみる:

これらは全部間違った表現だ。
似たような言葉と間違えて使っているもので、「格好悪い誤用」の例だと思う。

投稿者 Fujiwo : 11:50 AM | コメント (0) | トラックバック

October 21, 2005

飲みニケーションと陰口

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■ 「飲みニケーション」について

飲みニケーション:
「陰口を言い合って日頃の鬱憤を発散させること」

会社の飲み会にいくとよく感じることだ。
※ 注: 今の会社ではない。

飲み会になると、急に会社や組織の長などの悪口を言い合う。
「もっとこうすべきだ」とか「うちの課長はわかってない」とか。
でも、その課長本人と飲みに言ったときには、けしてそれを提案することはない。
今度はその課長と部長の悪口を言ったりする。

■ 陰口について

私は、飲み会で陰口を言い合うのは、いかがなものかと思う。
陰口は、非生産的だ。何も生み出さない。
Plan (計画) - Do (実行) - See (評価) のサイクルにおける評価とは、目的が異なるもので、「フィードバックがない」から「改善」に結び付くことがない。

でも、ガス抜きのために必要だ、と考える人はいるみたいだ。

組織に所属してお金をもらっていると、色々我慢しなければならないことや納得できないことが多いようだ。
それをガス抜きをしないでいて人間関係に支障をきたすより、時々陰口を言ってガス抜きをした方が寧ろコミュニケーションにとって良い、と考えているようだ。

でも私の考えでは、陰口などなくても、組織は回ると思う。
それより、少しずつでも、難しくとも、組織が良い方向に向かっていくようにすることで、不平不満を減らすようにする方が良いと思う。

大抵は組織内部の利害関係は複雑なことが多く、そう単純ではない。
改善を願っている人ばかりではないからだ。
だが、その方が良いと思う。ベストではなくともベターだと考える。

■ 陰口を言う人について

私の考えでは、陰口というのはごく個人的なものだと思う。
その人の性格によるものだと思う。

表立って批評や批判するのは、私は全然構わないと思う。されるのも受け入れるべきだ。
批判には、謙虚に耳を傾けるべきで、これは、ひとりよがりになりがちな自分としては、大切な態度だと思う。
だが、陰口は批判とは基本的に性質の異なるものだ。
それは、本人がその場に居るか居ないかの差ではない。

姿勢の違いだと思う。

批評・批判する人と違って、陰口を言っている人には、改善するつもりがない。
単に発散したいだけなのだ。

以前、陰口を言っている人には改善するつもりがない、と言うことを知らなかった私は、陰口を言っていた人に改善案を持ちかけて、無視されたばかりか、後でその人に陰口を言われる破目になったことがある。

それから、陰口を言う人は、批評・批判の方は好まない。

「表立って批評や批判」をしたことで、陰口好きな人から後で陰口を言われた、という体験をしたことがある。
「人前であそこまで言わなくても」ということだったらしい。

私としては、「陰で言っていても本人に伝わらなければ何も変わらないじゃないか」というつもりだったのが。

「陰口をいう人達とは、どうも価値観が違うらしい」というのがそのときの感想だ。

■ 陰口を恐れることについて

私は、陰口を恐れるべきではないとも思う。

以前は、会社の飲み会などで「いつもの陰口の言い合い」が始まると、この人たちは自分の居ない席では、こんな風に自分の悪口も言うことがあるんだろうな、と気になったものだ。

陰口を言われたことを知ってしまうと、それは人間だから凹む。

だが、最近は「こんなことを言うと、後で陰口を言われるんじゃないか」などと気にしなくなった。
陰口は批判とは基本的に性質の異なるものだ、と思うようになってからは、陰口を言われるかも、というのは余り気にしないでいられるようになった。

陰口など気にして、やりたいことの矛先が鈍るようでは駄目だ。

# でも「私は陰口を気にしない」なんて書くところをみると、私は陰口を多少は気にしているようだ。
# 本当に陰口を気にしない人は、「私は陰口を気にしない」なんて書かないだろう。

■ 改めて陰口を言う人について

色々陰口を言う人について述べてはきたが、私が最近気付いたことは、
「陰口を言う人というのは、自分が陰口を言われる可能性を許容しているらしい」
ということだ。
つまり、陰口を言うことを別に悪いことだとは思っていない、ように思う。
それならそれで筋が通っている。単に私と価値観が違うだけ、と納得したりもするのだ。

投稿者 Fujiwo : 01:10 PM | コメント (0) | トラックバック

October 06, 2005

The "Takanashi Method" & The "Monta Method"

※ わたやん さんからの情報。

Presentation Zen

投稿者 Fujiwo : 07:30 PM | コメント (0) | トラックバック

September 14, 2005

嫌いな言葉 その三

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嫌いな言葉 その二の続き。

『お前に俺の気持ちが分かってたまるか』

同情されたくない、ってことなんだろうけど。
甘えてるんじゃないのか。


『あ。それ買ったんだ。いいなー。欲しいなー。本当は欲しいんだけど高くて』

つまり、その金額払ってまでは要らないと。
本当に欲しかったら買うだろう。「本当は要らない」から買わないんだろう。
まあ、情では欲しいが、理性では要らないんだ、というニュアンスは理解できるが。


『社会にでたら、数学なんて役に立たないよ』

自分には、たまたま役に立たなかった、というだけだろう。それを一般論みたいに言われても。
例えば、自分がたまたま稲作に従事しなかったからといって、
「社会にでたら、稲を作る技術なんて役に立たないよ」
なんていうだろうか。
携帯電話が使えるのだって、テレビが見られるのだって、誰かが数学を勉強して社会で役立てたおかげだろう。


『私って意外と○○なんですよー』

「皆さん私のこと、○○じゃないんじゃなかろうか、と思ってらっしゃるんでしょうけれど、本当はそうじゃないんですー。じ・つ・は・○○なんですー。私は人気者だから、さぞ皆さん興味をもって色々と想像してらっしゃることでしょうけどー」のようなニュアンスに聞こえる。
自意識過剰ではなかろうか。「意外」も何も、悪いけどこんな人のことなど考えたくない。


『ピアノが弾ける人ってうらやましい』

練習しないで弾けてるわけじゃないんだから。自分も練習すればよいのでは。
「もしもピアノが弾けたなら」も同様。何も努力してこないでおきながら自分の現状を悲しんでる暇があったら、とっとと練習始めろって。

投稿者 Fujiwo : 04:50 PM | コメント (2) | トラックバック

September 07, 2005

ブログで「もんたメソッド」

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ブログで「もんたメソッド」の実験。
※ 隠れている部分を順番にクリックしていく。

「もんたメソッド」は、「午後は○○おもいッきりテレビ」で司会のみのもんた氏が行っているように、文章の要所を隠しておいて、それをひとつひとつ見せながら行うプレゼンテーションの手法。 隠しておくことで、
  • 注目させる
  • 考えさせる
という効果がある。

※ JavaScript が有効になっていないと動作しない。

投稿者 Fujiwo : 02:45 PM | コメント (7) | トラックバック

September 06, 2005

サイクロンとハリケーンと台風

※ 元ネタは、おかじま さん の日記。

をクラス図で表現。
cycloneclassdiagram.gif

投稿者 Fujiwo : 01:50 PM | コメント (5) | トラックバック

August 25, 2005

ご静聴ありがとうございました

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講演会などをよく聴きに行くのだが、その時に使われるパワーポイント等の資料でどうにも気になることがある。

まあどうでも良いことと言えばどうでも良いことなのだが、パワーポイント等の資料の最後が、


「ご静聴ありがとうございました」

となっているものをよく目にすることだ。

なんだか年寄りくさくて恐縮だが、静聴という言葉は、「私語したりせずに静かにして聴く」という意味で、会場がざわついていて、それが講演に差し支えるときなどに、司会者が、


「どうかご静聴をお願いします」

のように使うものだ。

「ご静聴ありがとうございました」

は、「静かに聴いていただいてありがとうございました」の意味で、この言葉の使い方は間違いではない。間違いではないが、講演の最後をこれで締めくくられると、とても違和感がある。

同じ読みで清聴という言葉がある。「他人が自分の話を聴いてくれることを敬っていうときの言葉」で、静聴とは意味が違う。
こちらを、


「ご清聴ありがとうございました」

のように使う。「私の話を聴いてくださってありがとうございました」の意味だ。
こちらの方が本来の使い方で、しっくりくる。

投稿者 Fujiwo : 03:55 PM | コメント (3) | トラックバック

June 02, 2005

嫌いな言葉 その二

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嫌いな言葉 その一の続き。

『高橋、頑張れ』

マラソンでランナーを路の傍から「高橋、頑張れ」などと応援している人がいる。

しかし、あなたが応援していることに関して、あなたが応援しているその人は、既にすごく頑張っているんだ。
少なくとも、ことマラソンを走ることに関しては、大して頑張ってないあなたに「頑張れ」などと言われる筋合いはない。

え、何? いや、言い訳なんか聞きたくない。
「俺も頑張らなくちゃなー」と心の奥底でひっそりと自分の半生を振り返る、とかじゃ駄目なのか。

大体「頑張れ」って。命令形だし。
せめて「頑張ってくだされば嬉しく存じます」とか、言い方っちゅうもんがあるだろう、あんた。
あ。興奮してしまった。「あんた」なんて言ってごめんな。


で… 「頑張れ」の代案だが:
「いいぞ高橋。お前は今最高に輝いてるぞ!」とか言うのはどうか。
少しこっぱずかしいかも知れんが。

投稿者 Fujiwo : 06:10 PM | コメント (0) | トラックバック

May 10, 2005

思考実験

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思考実験は楽しい。

「科学の方法」に従って思考すれば、或る仮説について論証したり反証したりすることができる。


上記サイト哲学コラム科学コラムはどれも中々面白い。
とても判り易く書かれているし、エッセイ風の文章には力が有って、読み手を厭きさせない。


ちなみに、どこでもドアの思考実験でテーマとなっているのは「この私」というクオリアだ (自分にとっての特別な「この私」という誰とも共有できない概念)。
同サイトから引用すると:

<この私>

「哲学的言説については、きまって「私」一般を論じている。それらは万人にあてまるものにすぎない。『この私』はそこから抜けおちている。私が哲学になじめなかった、またはいつも異和を感じてきた理由はそこにあった。」 柄谷行人

「『私』が本当に知りたいことは、一般的な 『私という概念』 についてではなく、まさに 『この私という現象』 についてなのだ。」 飲茶

投稿者 Fujiwo : 04:45 PM | コメント (0) | トラックバック

May 02, 2005

運転士、異常行動“ゲーム脳”の特徴

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運転士、異常行動“ゲーム脳”の特徴』 (ZAKZAK より)


上記記事より引用:

---- 引用ここから ----


●ゲーム脳か●

 「ゲーム脳の恐怖」の著書で知られる森昭雄・日大教授(脳神経科学)は高見運転士の行動をこう分析する。

 「高見運転士は過去3回も乗務員として重大なミスを犯しながら、自身で再発防止ができておらず、注意力が散漫な印象を受ける。伊丹駅でのオーバーラン後、指令の呼び出しに応答がなかったのも、故意であるとすれば、大事な場面で倫理的な行動がとれず、キレやすいというのはゲーム脳の特徴とよく似ているともいえる。JR西日本は運転士に関する情報を開示するなど、徹底検証が必要ではないか」

■ゲーム脳 テレビゲームに熱中すると、人間の脳波にはβ波が出ない場合がある。この状態になると思考活動が衰え、無気力、感情の爆発など、いわゆる「キレる」状態になるという。また、携帯電話を頻繁に利用する人も「ゲーム脳」になると指摘されている。


---- 引用ここまで ----

同サイトでは、寝屋川事件のときも「ゲーム脳」に関する記事を載せている。


テレビの報道番組などでも、未だに「ゲーム脳」のような滅茶苦茶な主張が後を絶たない訳だが、このような悲惨な事故の記事で、このようなことを書くのは不適切だ。ふざけているのか、と腹立たしく思う。


実際はふざけている訳ではなく、「ゲーム脳」に関する森昭雄教授の主張を全く知らないか、或るいは、自分の頭で全く考えようとしていないかのどちらかなんだろう。

このような「ゲーム脳」という言葉に思考停止してしまっている人たちの脳のことを「ゲーム脳脳」と呼ぶそうだ。

もう面白ければ何を言っても良いのか? という感じ。自分の脳で判断をしようとしないマスコミが、いたずらに恐怖感を煽る。
こういう煽りは、テレビでもよく見掛ける。
本当に危険なのは、「ゲーム脳脳」を持ったマスコミが、このような形で大きな影響力を発揮してしまうことだ。

「ゲーム脳」の論理は『買ってはいけない』(週刊金曜日別冊) でのそれと同様だ。

こんな論理で何かの危険性を論じて良いのなら、何だって危険になってしまう。

有名なジョーク「ジハイドロジェン・モノオキサイド」のように。


「ゲーム脳」については以下を参照のこと:

投稿者 Fujiwo : 07:20 PM | コメント (3) | トラックバック

April 25, 2005

嫌いな言葉 その一

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嫌いな言葉 その一:
『それって理想論ですよね。現場はそんなにうまくいかない』

例文.


一般解を全部「理想論」で片付けてしまう。

「現場はいつも問題に満ちている」というのは現実だが、いつもいつもずっと昔から同じような問題で困っている、というのは、それは現場のあるべき姿なんだろうか。

それって、「理想論」どころか、理想にも現実にも即していないのではなかろうか。

現場はいつも大変でつらいもんなんだ、と思いたいだけ。
「現場はそれほど甘くない」なんて口にしてしまったら成長はない。


(*1) 寧ろ、理想通りに行かないからこそ、現実的な近似解を求める方法としてアジャイルがあるのだけど。

投稿者 Fujiwo : 04:08 PM | コメント (5) | トラックバック

April 20, 2005

JAL名人会 ~守破離の教え~

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先日、INETA Japan 総会 に出席すべく、飛行機で移動した。

機内では音声のみの寄席が放送されている。
# ANA では「全日空寄席」という番組だが、行きは JAL だったので、「JAL名人会」という番組だ。

桂米丸師匠の出演だった。

新作落語ばかりやることで有名な方で、長く落語芸術協会の会長をやっていた方だ。

私は、20年前くらいに落語が好きでよく聴いていた。
その頃は、三遊亭圓生や柳家小三治、桂米朝桂枝雀なんかが好きだった。
米丸師匠は余り好きな噺家ではなかった。

それを久し振りに聴いた。

これが、思いのほか素晴らしかった。
米丸師匠も80歳を過ぎたそうで、昔の飄々とした語り口は残しつつも、深みを増している。
改めて芸の道の道程の長さを感じた次第。


このときの演題は「入門の頃」。入門したての若い頃、師匠についての修行時代の思い出話だ。

彼の師匠の五代目 古今亭今輔という方は、大変な苦労をして中年から売れた噺家だそうだ。

その今輔師匠に随分と可愛がられ、噺を教わって言われたことは、
「とにかく俺がやっているようにやれ」
ということだったそうだ。
若い頃の米丸師匠は、今輔師匠に言われた通り、声色からしぐさからそっくり師匠のまんまにやるようにしたそうだ。

暫くして、段々笑いが取れるようになってきた。
しかし周りの先輩芸人には余りよく思われなかったようだ。
或る日、いつものように今輔師匠そっくりにやって高座を降りると、他の師匠に呼ばれてこう言われたそうだ。

「最近、お客さんが笑うようになってきたようだが、あの芸はお前の師匠のコピーだ。自分の芸じゃない。」

師匠に言われたとおりにやってきたのに、こういうことを言われ、若き日の米丸師匠は、やつれる程悩んだそうだ。

その様子を心配した今輔師匠に呼ばれて、何度も問い詰められたあげく、「実はこうこうこういう訳で」と告白すると、今輔師匠は、とても困った顔をして黙りこんだ。
そして、暫くしてこう言った。

「あの師匠は良い人だが、お前の成長には何の責任もないんだ。俺にはお前を立派に育てる責任がある」
「噺家を始めて一年や二年で自分の芸でやっていけるもんじゃない。
先ずは俺の十八番の芸をそっくりお前に教えてやるから、それをそっくり真似できるように練習するんだ。
それでうまくやれるようになったら、そこから自分の芸というものを生み出していくんだが、それは二十年先の話なんだ」

そこで米丸師匠が、芸の道でも書道でも武道でも初めは師匠の真似なんだ、だから、良い師匠に出会うことがとても大切だ、自分は幸せだ、ということに気付いたという話。

若き米丸師匠の実際の体験とそのときの熱い思いが語られていて、じーんときた。

投稿者 Fujiwo : 11:00 PM | コメント (3) | トラックバック

April 08, 2005

哀しみのソレアード

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十年以上も探していた曲がある。

思い出の曲。
心が深い体験をしたときに流れていた曲で、聴くと今でもしんみりした気持ちになる。

静かでせつないインストゥルメンタルの曲だ。
一年に一度くらい、街角で流れていて、ふと足を止めたりする。
「なんていう曲なんだろう」

ずっと気になっていた。
でもメロディしかわからなかったので、なかなか曲名が判らなかった。
インターネットの検索サイトもメロディから曲名を探す役には立たなかった。


そして先日、東京の喫茶店で話をしていたときに、この曲が流れた。

急に頭の中に奇妙な歌詞が浮かんだのは、そのときだった。

「楽しかーったひとときがー、今はもうすぎてゆく~」

?!

なんだこの歌詞は?

それから、次々とキーワードが浮かんできた。

「井上 順?」
「カックラキン大放送?」

頭の中で何かが繋がったような気がした。

帰ってきて早速 Google で検索した。

直ぐ見つかった。
「哀しみのソレアード」という曲だった。
英語では、"Soleado―When A Child Is Born―" というらしい。

もう随分と前だが、「カックラキン大放送」という番組 (堺正章やラビット関根、研ナオコ、野口五郎等が出演していた) のエンディングで井上 順が歌っていた旋律が、まさに探していた曲だったのだ。

余りにも違うシチュエーションで聞いたために、頭の中で結び付くのに十年以上掛かってしまったようだ。

ともかく、長年の疑問がようやく解けた。
今は晴れやかな気分だ。


同様な体験は、以前にもある。

そして、どれも数十年の気掛かりの後に、ふとした機会に判明した。
そのミステリーの本も西部劇のビデオも何とか探し出して、今は手元にある。

今残っているのはこれ。

これは多分もう分からないんだろうな。

投稿者 Fujiwo : 10:10 AM | コメント (2) | トラックバック

April 01, 2005

Headlineって著作権的にOK?

からくり屋Blog ― Headlineって著作権的にOK?
について:

先ずは、それが著作物であるかどうかだと思います。
法律の文章など、公的に公開された文書は著作物には当たらないので、いくらでも使うことが出来ます。

※ 「タイトル」は、著作物ではないので無断で使用して構いません。


もし、著作物であっても、私的に利用することは問題ありません。個人や家庭内などの限られた範囲で使用する分にはコピーをとっても大丈夫です。

※ これが駄目だと、Web ブラウザで Web サイトを閲覧することも、メールを受信する行為も出来なくなります。ローカルなハードディスクに他人の著作物のコピーが作れない、ということですから。


また、「引用」は常に著作権者に承諾を得ることなく、自由に行うことができます (著作権法より)。

引用であれば、無断で行ってもなんら問題はありません。
引用が許されないと、批評などが適切に行えないことになり、困ったことになります。

※ よく、「無断引用お断り」などと書いてある Web サイトがありますが、これは無効です。「引用」は無断で行えるべきだし、引用されたくないのであれば、そもそも Web で公開すべきでない、と考えます。

その場合、

「公正な慣行に合致すること」
「他人の著作物を引用する必然性があること」
「自分の著作物と引用部分とが区別されていること」
「引用する著作物の方でなく自分の著作物の方が主体であること」
「出所の明示がなされていること」

が引用の条件になります。


これらを満たしていない場合、「転載」または「抜粋」ということになり、著作権者に無断で行うことは違法です。
また、引用であっても「引用にあたり、他人の著作物を変更すること」は違法です。


で結論ですが、RSS などを利用した Headline や Google などの検索サイトの場合は、私は、引用の条件を満たしていると思います。

公正な慣行に合致していると思いますし、引用する必然性があります。引用元も、URL などで明確にされています。

ただ、表示のされ方などは重要だと思います。引用部分が明確に区別されていて、主になっていないようにしないといけません。

<blockquote> タグを適切に使用することも大切かも知れませんね。

投稿者 Fujiwo : 11:27 AM | コメント (2) | トラックバック

February 22, 2005

ハントンライスとタンバルライス

hantonrice.jpg
私の大好物にハントンライスというのとタンバルライスというのがある。
子供の頃はよく食べた。
しかし、ここ二十年では一回しか食べていない。

洋食の一種で、強いて言えば、それぞれオムライスとドリアに似ている。
でも、強いて言わなければ、何にも似ていない。ハントンライスはハントンライスだし、タンバルライスはタンバルライスだ。
ハントンライスのハンはハンガリーのハン、トンはフランス語でマグロを意味するそうだが、そんなこともどうでも良い。

はっきり言ってうまい。
十年に一度くらい、猛烈に食べたくなる。
丁度今がその十年に一度の状態だ。

何処にでもある料理ではない。
東京にも無いだろう。

しかしすぐにでも食いたい。

これはもう自分で作るしかないか。

ハントンライスのレシピ: COOKPAD *ハントンライス*

投稿者 Fujiwo : 05:35 PM | コメント (4) | トラックバック

February 16, 2005

コミュニティのマニフェスト

コミュニティ活動を色々やる中で思い付いたので、ちょっとメモ。

manifesto.gif
■ コミュニティのマニフェスト

「私たちは、

『明文化された厳密で詳細な決まりごと』より『柔軟な臨機応変』、
『全ての問題が解決するまで始めない』より『先ずはやってみて結果をフィードバック』、
『入念な準備』より『変化への対応』、
『トップダウンなコミュニティ』より『ボトムアップなコミュニティ』、
『縦社会のコミュニティ』より『横社会のコミュニティ』、
『報告』より『双方向のコミュニケーション』、
『責任者の追及』より『言い出しっぺの法則』、
『どうあるべきか』より『どうしたいか・どうなりたいか』、
『責任感』より『ボランティア精神』
『義務感』より『自由な参加』

をより尊重します。
(前者も尊重するが、後者をより尊重する)

これは、理想を言っているのではありません。極めて現実的な解です。
全てを前以て厳密に決め厳密なトップダウンで実行、という方がはるかに理想を追っていて非現実的です。コミュニティなのですから」

# 複雑系 (Complex Systems) では初期の計画の精度を上げることは無意味 (謎)。
# 「全てを前以て厳密に決め厳密なトップダウンで実行」というのは、複雑系の問題を線形方程式で解こうとしているようなもの。

投稿者 Fujiwo : 12:01 AM | コメント (2) | トラックバック

November 22, 2004

遠山式超立体写真

遠山式超立体写真集 Touch it!」という本を購入した。

touchit.jpg


随分前のことだが、ランダムドット ステレオグラムというのが流行ったことがある。
ステレオグラムという絵を平行法や交差法などの裸眼立体視で見ると、立体的に見えるのだ。
これは結構気持ち良い感覚で、暫く立体視に凝ったことがある。


で、今回買ったのは、赤と青のセロハンの眼鏡を通して見ると飛び出して見える、というやつだ。
いわゆる赤青眼鏡方式のステレオグラム。昔の立体映画などでよく使われていたものだ。

但し今回のは、かのナムコが特許を取っている「遠山式」というもので、従来のやつと見え方が違う。

写真の上に実物を置いて、立体視すると更にリアルに見える。
楽しい。

「遠山式」については、この辺に記事が有る。

今回買ったのは「Touch it!」という本で、お札やら食べ物やらの写真が飛び出して見えるのだが、他にも遠山式の写真集は出ている。

こちらの方が、もっと楽しそう。

投稿者 Fujiwo : 06:05 PM | コメント (2) | トラックバック

October 25, 2004

人狼BBS

wolf.png

「人狼BBS」というものがあると聞いて、覗いてみた。

おすすめログ ― 名勝負 in YukiWiki というのを読んでみた。

読みながら思わず唸ってしまった。なかなかこれは興味深い。

という部分が強調された状況が作り出されていて、状況判断とコミュニケーションの、濃い訓練になっている。

「説得力を持つ」ということの具体例をみることが出来た。

投稿者 Fujiwo : 10:25 AM | コメント (0) | トラックバック

October 14, 2004

俺は小銭が嫌いだ

purse.gif

財布の中が小銭でじゃらじゃらいっているのが嫌だ。

お金が沢山ありすぎて財布がふくらんでいるのはいい。勿論歓迎すべきことだ。
でも小銭のせいでぱんぱんになっているのは嫌だ。

もっと言えば、財布の中のお金の枚数は、最少であって欲しい。
無駄に枚数が多いのは許せない。

coins.gif

例えば、財布の中に 1,444円 持っているとする。
この時の内訳は、千円札×1 + 百円玉×4 + 十円玉×4 + 一円玉×4。
是非こうあって欲しい。
いや、こうあるべきだ。

同じ 1,444円 でも、千円札×1 + 百円玉×3 + 五十円玉×1 + 十円玉×7 + 五円玉×2 + 一円玉×14、なんてのは駄目だ。駄目駄目だ。
有り得ないといってもいい。
十円玉が 5 枚以上有る、とか、五円玉が 2 枚以上有る、のようなのは潔しとしない。

人間、そんな羽目に陥いらないようにしたいものだ。
そんな状況になっているのは、過去の金銭の授受において、きっとなんらかのミスを犯しているのだ。

例えば、678円 の買い物をするとする。
財布には、1,444円。つまり、千円札×1 + 百円玉×4 + 十円玉×4 + 一円玉×4 が入っている。

678円 丁度で支払えれば一番良い。だが、この場合それは出来ない。
どうするか。

千円札を出してお釣りを 322円 貰うと、1 枚出して、お釣りを 7 枚 (百円玉×3 + 十円玉×2 + 一円玉×2) 貰うことになって、財布の中のお金の数は 6 枚増えてしまう。
この払い方は、安易だ。怠惰だ。
いやむしろ、ある種の敗北とさえ言える。

ここは、1,233円 (千円札×1 + 百円玉×2 + 十円玉×3 + 一円玉×3) 出すべきだ。
そしてお釣りを 555円 (五百円玉×1 + 五十円玉×1 + 五円玉×1) 貰うようにする。
9 枚出してお釣りは 3 枚貰うことになり、財布の中のお金の数は 6 枚減る。

これしかない。
差し引き 12 枚も違う。


ただ、たまに支払い時にこちらの意図が伝わらず、怪訝な顔をされることがある。
1,233円 の意図が分かってもらえないのだ。

レジの手が完全に止まってしまう人もいる。

そんなときはレジのお姉さんに向かって心の中でこう叫びたい。
いいから俺を信じろと。
意味が分からずとも、黙ってそのまま 1,233円 のお預かりと打てと。
そうすれば、いずれ分かる時が来るからと。


子供の頃。
電車に乗ろうと思った俺は、80円 の切符を買おうと 国鉄 (JR でなく国鉄だった) の窓口に向かった。
80円 丁度がなかったが、窓口の職員の手元に五十円玉が見えていたので、百円玉 1 枚と十円玉 3 枚の計 130円 を出した。
すると、職員が「80円 だよ」と乱暴に言った。この頃の国鉄の職員は本当に態度が悪かった。意味が分からず黙っていると、「80円だってば」と乱暴に 30円 を投げてよこして、それから切符と 20円 を差し出した。

何も言えず、それを受け取る俺。
つらかった。
大人は何も分かっちゃくれない。
もう何も信じるもんか。
社会に絶望する子供の頃の俺。


また、こんなこともある。

678円 の買い物に 1,233円 出したとする。
でも、レジを開けてみた結果、残念ながらレジには五十円玉が切れていたとする。
すると、お釣りには、十円玉が5枚混じってしまうことになる。自分が出した 3 枚の十円玉もその中に入る。

これは空しい。何という寂寥感。

でもこれは自分として「財布の中身を最小枚数にする」という目的にコミットしてベストを尽くした結果だ。
やるだけのことはやったんだ。結果が駄目でも受け入れよう。

ナイス ファイト、俺。
この経験をバネに明日からも頑張るぞ、俺。

そういう気分にならないか。

# ジョークですので、念の為…

投稿者 Fujiwo : 03:56 PM | コメント (4) | トラックバック

October 06, 2004

頭の悪そうな質問

【ドキュメント】頭の悪そうな質問

頭の悪そうな質問をしといて、それに思い切りツッコミをするテスト。

# もう最近こんなのばっかし。ちゃんとしたことが考えられません。

投稿者 Fujiwo : 06:21 PM | コメント (0) | トラックバック

September 30, 2004

世界/日本で二番目のもの

【ドキュメント】世界/日本で二番目のもの

「世界一・日本一は有名だが、第二位は余り知られていないことが多いようである。すごい実力を持っているのに余り目立たない。ここでは、そんな二番目にスポットを当ててみたい。」

投稿者 Fujiwo : 12:00 PM | コメント (0) | トラックバック

August 20, 2004

世界一面白いジョーク

次にあげるのは「世界一面白いジョーク」として Laugh Lab というサイトに紹介されたものである。

A couple of New Jersey hunters are out in the woods when one of them falls to the ground. He doesn't seem to be breathing, his eyes are rolled back in his head. The other guy whips out his cell phone and calls the emergency services. He gasps to the operator: "My friend is dead! What can I do?" The operator, in a calm soothing voice says: "Just take it easy. I can help. First, let's make sure he's dead." There is a silence, then a shot is heard. The guy's voice comes back on the line. He says: "OK, now what?"

これについて、「WIRED NEWS 『世界で最もおもしろいジョーク』のオンライン調査結果発表」という記事がある。
古い記事だが、前から気になっていたのであげてみる。

記事には、

さて、1位になった次のジョーク、ジョークを解さないという日本人たちに「世界一」と受け取れるだろうか。

とあるが、記事にあるように、

「米ニュージャージー州のハンター2人が狩りに出た。1人が木から落ちてしまった。仰天した連れのハンターが携帯電話で『息がない』と緊急通報した。救急隊のオペレーターが『落ち着いて。大丈夫。まず死んでるのか確かめなさい』と声をかける。一瞬の静寂後、オペレーターの耳に1発の銃声。続いて、『死んでる。これからどうしたらいいの?』というハンターの声が響いた」

のように日本語に訳してしまったのでは、ジョークとしての意味が判らないだろう。

# "make sure" は「確かめる」の方の意味で使われることが多いが、ハンターにとって "make sure one's death" は「(獲物に) トドメを刺す」の意味。
# "OK, now what?" を「死んでる。これからどうしたらいいの?」と訳しちゃうのもなんだか。先の "What can I do?" の質問で得られたオペレータの指示に一つ従った上で、"now what?" と次の指示を求めているのだから、「やりました。で、次は何をしたらいいでしょう?」くらいの意味だろう。

当人はあくまでも切迫した状況で真剣にオペレータの指示に一つ一つ従っているつもりであって、それと現実との落差がジョークとしての価値だろう。「これからどうしたらいいの?」では、ただ途方に暮れているみたいだ。

投稿者 Fujiwo : 11:59 PM | コメント (0) | トラックバック